NHK朝ドラ「風、薫る」
明治時代、現代の看護の礎を築いた2人の女性の物語。主人公のお一人が栃木県出身ということで、初回から毎日楽しみに見ておりました。
9月末、いよいよ最終週。タイトル「道標(みちしるべ)」という言葉の持つ意味を、現代という時間軸で表す素晴らしい最終回でした。
誰もが歩いてきた道。
これからも歩いていく道。
そこにある道標。
1991年11月、私たちは結婚しました。当時は皆さまよくご存知の通り、主人が父から受け継いだ1ドルラーメンの時代。
1ドルラーメンを続けていくために、結婚したばかりの私の仕事の大半は出前だったくらいです。
出前から帰ると、次の出前が待っていて、「はい、次!」みたいな感じで休む間もなく、ラーメンのぎっしり入ったおかもちを持って次の配達へ。
「ラーメン屋さんの仕事って大変なんだなあ」と、今更ながらラーメン屋に嫁に来たことを実感する毎日でした。
ただ、中国料理で修業してきた主人は、「このままでいいのか」と考えていたようです。
この先、中華料理でやっていくのか、それともラーメンでやっていくのか。
当時の世の中は、環七ラーメンが連日テレビで紹介されるラーメンブームの真っ只中。
そんななか、ある日、雑誌『じゃらん』の小さな記事が主人の目に留まりました。
「1994年春、新横浜にラーメン博物館がオープンする予定」という記事でした。
「ラーメン博物館?」
これは行かなくては!と、ようやく初めて2人で訪れた新横浜ラーメン博物館。
北は北海道のすみれさん、南は九州福岡の一風堂さんまで、全国から選りすぐりのラーメンを昭和30年代の街並みの中で食べるという初めての体験。
この時、主人の心の中でラーメンが輝いて見えたのです。35歳の時でした。
それから2年後、父から受け継いだ鹿沼の店を閉める決断をし、ラーメン専門店としての道を選び、1歳になったばかりの娘を連れて宇都宮に転居。
1996年6月11日、「らあめん厨房どる屋」をオープンしました。
その3年後の1999年、開催されたのが「第1回ラーメン登竜門」。
第1回ラーメン登竜門では、決勝まで進みながらも残念ながら準優勝。その時に出したのが「鯛らーめん」でした。
あまりの悔しさから、翌日、新横浜から宇都宮に帰ってきたその日に、まだ開催されるかどうかもわからないのに、第2回ラーメン登竜門の応募用紙をラーメン博物館に速達で送ったのでした。それが「鮎らーめん」。
しかし、第2回が開催されることはなかったのです。
あれから長い長い年月が過ぎ、2024年2月、X(旧Twitter)をいつものように眺めていると、こんな投稿が流れてきました。
「ラーメン登龍門2024開催!」
待ち焦がれたラーメン登龍門が、25年ぶりに開催されると知って、あの時の目標が再び目の前に現れてしまいました。
主人の中では、第1回ラーメン登竜門は準優勝したものの、どこか消化不良のままだったのだと思います。
ただ残念ながら、第2回も決勝まで進みながら上位入賞は果たせず。
「なぜ、落合さんは何度も何度もラーメン登龍門に挑戦するんだろう?」そう不思議に思う方も多いと思います。
それは、主人にとっての「道標」が間違いなく新横浜ラーメン博物館であり、ラーメン登竜門であったから。それが3度目のラーメン登龍門挑戦へと駆り立てる原動力なのです。
3度目の挑戦、3度目の決勝進出で初めて、新横浜ラーメン博物館内の実際の店舗で2日間営業することになります。
加藤浩次さんの言葉をお借りするならば、「当たり前じゃないからな!」という心境です。
昭和30年代の夕焼けの町、鳴門橋駅前通りの一角でお客様をお迎えできるなんて、本当に夢のようです。
今回の挑戦にあたり、お客様からたくさんの温かい応援のお言葉を頂戴いたしました。本当にありがとうございます。いただいたお言葉をしっかりと胸に刻み、新横浜へ向かいます。
ただ、最終結果が出るのは来年1月17日です。まだまだ戦いは続きますが、まずは今週末の審査出店を全力で頑張ってきます。
【店休のお知らせ】
10月17日(土)〜 20日(火)の4日間はお休みをいただきます。
10月21日(水)から、皆さまのご来店を心よりお待ちしております。
では、行ってまいります!
※ラーメン博物館によると、第1回は「ラーメン登竜門」第2回以降は「ラーメン登龍門」の表記となるようですので、それに沿って表記しております。
※審査出店のメニューはどなたでも食べられるわけではありません、ラー博倶楽部のブロンズ会員さま以上の方のみです。ご了承下さいませ。詳しくはこちらを。
https://note.com/ramenmuseum/n/n8d49d6810940